サンディエゴより♡私が私らしく、あなたがあなたらしく

自然体で気まま♡私が私らしくいることが一番大切です。

小学校三日目。出だしは好調!

みなさま、こんにちは。

サンディエゴは水曜日。水曜日は小学校も半日で、お昼の12時半がお迎え時間。洗濯やら掃除をしていたらあっという間です。

 

今日が登校3日目の子供たち。今のところは、ご機嫌に登校し、ご機嫌にゲートから出てきます。長男と次男のどちらのクラスにも日本人は誰もいない様子で、先生やクラスメイトが話していることは全くのチンプンカンプンとのこと。この小学校は多様性に富み、世界各国からの子供たちがいるみたいですが、その多くが長年こちらに住み、英語はネイティブ並みというのが多いようです。我が家みたいに、「HELLO! MY NAME IS~, NICE TO MEET YOU!」くらいしか話せない子はいるのかしら。それでもそこは男の子。休み時間は鬼ごっこをしたり、ボールで遊んだりと、楽しく過ごしているようです。

 

カリフォルニアの公立の小学校では朝食とランチも無料で食べられます。学年別にランチの時間をずらしてはいるようですが、カフェテリアは一斉に込み合う模様。なんと20分ほどでベルが鳴るらしく、並んでやっとこさランチをゲットしたと思いきや、ランチタイムが終わってしまい食べ損ねる子もいると聞いていました。

 

慣れるまではと思い、朝食は家で食べてから登校し、お弁当も持たせています。長男は、無料でオーダーできるランチに興味深々。どうしても食べてみたい!と昨日から文句も散々。今日はお弁当を持たずに行きました。一方、次男はカフェテリアの席が取れなかったようで、お弁当もほぼ食べられずに帰ってきています。彼も食いしん坊なので小学校のランチを食べてみたくて仕方がないのですが、意外と繊細なところもあり、食べられないと困るからと今朝もお弁当を持っていきました。兄弟でも本当に違う二人。こんなところにも差が出ますよね。

 

始まって三日目ですが、すでに宿題も毎日出ています。5年生の長男。先生がライティングに強い先生らしく、昨夜も自己紹介を書くライティングの課題がありました。アルファベットや簡単な単語ですら書けない我が子たちにとって、ライティングの課題は強敵!辞書を引いたり、インターネットで調べながら、なんとか一枚書き終えました。

 

そして算数が意外と難しい!算数というよりも、分析力や論理性を問うもので、英語が分かったとしても私には理解が及ばない。宿題や課題は今のところ私が全面的にお手伝いをしているのですが、この算数の課題には悪戦苦闘しました。それでも、親子でヒーヒー言いながらも一緒に頑張るというのも良いものですね。

 

私は私で子供たちがいない間に、エクササイズをしたり、ブログを書いたり、友人とお茶をしたりと、思うがままに楽しんでおります。渡米して一か月弱。その間にも素敵な人たちとの出逢いがいくつかありました。昨日は、韓国からのお友達ママたちとお茶をした後、学校に必要な文房具の買い出しの為に運転スキルの乏しい私を乗っけて色々お店を回ってくれました。朝ごはんにはパンケーキを届けてくれるタイ人のお友達。子供たちをいつもプールに誘ってくれるアメリカ人のファミリー。昨日は空手レッスンの後、ポーランド出身の友人との会話を心から愉しみました。

 

今の私の周りには、困った人はどこにもいません。これまでは、悩みを抱えた人ばかり!だと思っていたのに!出逢う人出逢う人が、優しさと温かさに溢れ、シンプルに人生を楽しんでいます。彼らにはやっぱり軽さがあるのだと思います。

 

そんな所で生活していると、私にも、悩みや問題というものが引っ掛かってこないのですね。あるのはあるのです。きっと。それは間違いないです。それでも、多分素通りしちゃうのですね。「何とかなる」に揺るぎがないので、悩みや問題に深刻さがないのです。深刻さがないと、人は忘れます(笑)。

 

悩みを問題を掘り下げては自分に問いかけ続けたあの頃は、今となっては良い思い出です。悩みや問題の核を探ろうと四苦八苦してきましたが、本当は、ぼんやりとやんわりとで良かったのかもしれません。

 

それよりも、自分の忘却力を大切に、軽く一歩、そしてまた一歩、進み続ける(笑)ダメだったら引き返せばいいのですもの。失敗も間違いも何も怖くはありません。それすらもきっと忘れるのですから。

 

私にとっては、今の環境が最高に良い感じです。根底に「楽しい」があります。あとは、フワリフワリ。行っては戻り、戻っては行き。必要なことは心にとどめ、必要のないことは、忘れ去り。一人の時間を充たしては、誰かと時間を共有することを楽しむ。

 

全てが自分の選択です。

 

読んで頂きありがとうございます。

Have a great day!

 

忘れることは大切なちからです。

 

 

 

 

 

 

人と分かり合おうなんて思わない!

みなさま、こんにちは。

今日からいよいよ新学期。アメリカの長い夏休みも終わり、新しい学年のスタートです。我が家の子供たちは、2年生と5年生。早起きして自己紹介の練習を何度も繰り返しながらも、ワクワクしてゲートに入っていきました。(コロナ後は、親は校門のゲートの中には気軽に入れないようで、ゲートの前でお見送りをしてきました。)お迎えの時間は15時。子供たちの初日の感想を聞くのが楽しみでなりません。どうか二人が素晴らしい学校生活を送ることができますように!

 

そして、私は待ちに待った念願のお一人様!!帰ってきて洗濯や掃除をそそくさと済ませ、ジョギングをして、エクササイズをして、やっとコーヒーを飲みながらゆっくり。部屋には太陽の陽ざしがキラキラと反射し、鳥の囀りが心地よく、一人の静寂。なんと贅沢な時間なのでしょう。

 

そうそう。学校のクラスなのですが、我が家の子供たちのクラスは両方とも「コンボクラス」だそうです。聞き慣れない「コンボクラス」ですが、アメリカでは一般的だそうで、生徒の人数が定員に満たなかったり、先生の人数が足りなかったりの理由で、二つの学年を合わせたクラスのようです。日本ではなかなか考えられないですが、アメリカでは、校長やPTA(ファウンデーション)の力がかなり強く、その方針もよく変わるみたいです。

 

子供たちが通う小学校では初めての試みのようで、実はこの「コンボクラス」を巡って一悶着あったようです。クラス発表が先週末にあったのですが、「コンボクラス」の実施に反対して、校門の前に「NO!コンボクラス!!」のような落書きをした人が数人いるとのこと。小学校側も反対の意見には理解を示しながらも、落書きという行為に対しては、警察に報告し、法的な手続きを踏む予定とのことでした。

 

その「コンボクラス」。2クラスの「コンボクラス」が設置されたらしく、なんと?我が家の二人ともが大当たり!2年生の次男が、1年生と2年生の合同クラス。5年生の長男が4年生と5年生の合同クラスです。

 

うーん。反対する人の気持ちは分かります。お子様が上の学年ですと、一年下の学年の子供たちと一緒は学力面や社会面も気になるのでしょう。うちの子がどうして?と文句の一つでも言いたくなるかもしれません。子供のこととなると心配も付き物。どうしても「比較」してしまいますしね。

 

我が家の子供たちは英語が全く出来ないので、文句も言いようがございません(笑)いろんな面で良し悪しがあると思いますが、決められたことは決められたこと。きっと良きに働くでしょう!与えられた環境を満喫し、ベストを尽くしてほしいと思います。

 

そして、子供のうちの1年や2年なんて大差はないと思っています。公園では、幼稚園児のような小さい子供から中学生のような子供までが入り混じって遊んでいますし、子供たちが「楽しい」と思ったり、夢中になることって、万国共通で、年齢や国や性別などの付属的なものを超えたところにあるのですよね。

 

大人にとっての10年、いや、20年さえもさして変わらなくないですか?(笑)私なんて、うっかり自分の年齢を忘れて、気づけば20代の人たちのグループにいたり、おばあちゃまのグループに交じっていたりもします。

 

勿論いろんな意見があっていいのです。自分の意見を主張してもいいのです。それでも「戦う」のは勿体ないなと思います。今回の「落書き」のように。それに対する「反論」や「議論」のように。「戦う」ことはやはりエネルギーを余計なところで消耗してしまうのですね。

 

「人と分かり合いたい」や「人と同じでなければならない。」という信念を持っていると、特に苦しくなってしまいます。「結論を導かなければならない。」とか、「答えは一つでなければならない。」といった信念も同様です。

 

全ての人が個であり、それぞれの感性や意見を持っています。「分かり合う」「答えが一つ」ってどう考えても難しいですよ!そして、正しさを主張してみても、それって自分の中で起きているだけだったりします。

 

要は、自分が納得すれば何でもいいのだと思います。自分と相手は違うというのが前提で、どちらの意見が正しいなど優れているなどは本当はどうでもよく、自分の想いや考えをきちんと主張すること。そして、相手のものを知ること。違いをただ知り、受け入れること。それだけで良いと思うのです。(理解しよう、納得しよう、同意しよう、なんて決して思わない!)

 

私と夫は考え方や信念にも違いが沢山あります。勿論、イラっとすることもありますし、些細なことで口喧嘩になることもあります。それでも、自分の想いを伝え、相手の想いを聞き、ごめんなさい。もしくは、了解!それで終了です。夫を理解しようとか夫に理解してもらおうなんて更々考えてもおりません(笑)たまにね、心のなかではクッソーって思っていたりもします。それでも、私の素晴らしい忘却力が次の瞬間には助けてくれると知っているので、万事OKなんです。

 

限られた時間は、自分のもの。決して相手のものではないのですから、自分にフォーカスして生きればいいのではないかなと思います。

 

読んで頂きありがとうございます。

Have a great day!

 

お花のようにエネルギーに満ち満ちた子供たち

 

 

探し求めた愛

みなさま、こんにちは。

ラホヤの朝は少し涼しくなってきました。朝早起きをして外へ出て、深呼吸。朝露と木々の香りに身体が充されていきます。

 

思えば愛とは何かを探索し続けてきた人生でした。考えてもキリのない果てしないお題を、何とかその輪郭だけでも捉えたいと探し求めてきました。

 

触れては消える泡のような愛のカタチも様々な人間関係で学びました。私には愛がわからなかった。いえ、わからないのではなく、どうしてもしっくりこなかったのです。

 

感覚的に知っている愛を思い出そうと、もう一度その感覚に触れようと、言葉にならない愛というものを何とか表現したかったのです。

 

今は、木々たちが教えてくれます。鳥の囀りが教えてくれます。太陽の光が教えてくれます。心地よい風が教えてくれます。そして、この場所でただ深く呼吸をしている私の身体の隅々が教えてくれます。

 

意味も理解も言葉も必要なく、一つひとつがその姿のままで在るだけで世界と調和している。

 

それが私の探してきた愛でした。

 

みなさまも良い1日をお過ごしください。

Have a great day!

 

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人生に断言できることなんて何もないよ!

みなさま、こんにちは。

月曜日から転入する小学校から、新入生を対象に先生や学校の施設の案内をしてくれるとの案内があったので、今朝、家族で意気揚々と出かけました。あれ?どこか様子がおかしい?と思ったら、幼稚園児のみとのこと。お知らせはきちんと読まなきゃですね。

 

こちらに来てからも日本のニュースを時々チェックするのですが、りゅうちぇるさんとペコさんの離婚のお話を目にしました。あまり人がどうこう言うことではないお話には興味がないのですが、二人が示してくれる多様性や新しい家族の形は素敵だなと思いながら読みました。

 

結婚だけに限らず、決まったものなんて人生の中にあるのかしら。一度決めたことを貫くという事は社会一般には美徳とされるのかもしれません。私にとっては恐怖ですが(笑)

 

「絶対~する。」「絶対~に違いない。」のような断言する言葉を使っていると苦しくなります。

「多分ね。」や「かもね。」とか、「そうかもしれないけど、こうかもしれない。」って、仕事の上では困った人になってしまうかもしれませんが、人生の中で大概のことがそうではないですか??

 

考えてみると、私が絶対に間違いない!って断言できるものなんて何もないかもしれません。世の中には、自分の思考や意識や感覚で捉えられないことの方が多いからです。意識の外側にある未知の広い世界がありながら、「絶対に違いない。」と決めつけてしまうことは、とっても勿体ないですし、自分を苦しくさせてしまっているかもしれません。「絶対」を持ち続けていると、結果、自分にもそして人にも厳しくしてしまっているかもしれません。

 

私にとっては、全てが「かも。」です。ある人からすると逃げているように映るかもしれません。信用に足らない人間に映るかもしれません。それでも、私の人生の中で断定できるものなんて一切ありません。結婚もそうです。夫に聞かれたら詐欺だ!って大喧嘩になるかもしれませんが、絶対にこの人と最後まで添い遂げるなんて誰が分かりますか。

アメリカでの生活もそうです。引っ越しは家族にとって大きな出来事ですが、これがいつまで続くか全くわかりません。数年経つと、私の両親が病気になったり介護が必要になったりして、日本に戻ることもあるかもしれません。永住権の抽選に当たってこちらで就職でもしてマイホームを持つこともあるかもしれません。素敵な男性と巡り合ってアメリカでも日本でもシンガポールでもない何処かの国で住むことになっているかもしれません。

子供たちなんて特にそう。子供たちの人生は子供たちのもの。とっくに私の手が届かないところにあります。

 

決められた未来なんて何処にも存在しません。なので、何が来たるのかさえ考えないことです。人生は必ず何かが来るように出来ています。同じものなんて一切ありません。私は、どんなものが来るかは完全にお任せスタイルを取っています。「自然」にお任せです。私に必要なものが必要なタイミングでやってくるという事に揺るぎがないので、例え選択を迫られるような事が起こったとしてもあまり悩むことがありません。それに対して私自身がどう感じるか。その一瞬の感覚(インスピレーション)を信じ切っているからです。信じ切るというよりも、それに嘘を付けないのです。

 

私は不器用なので、どうしても自分自身の感覚に嘘をついて生きることはできません。勿論、大人ですので嫌なことや苦手なことでも日常生活の中でやらなければいけないことはあります。(例えば整理整頓!いや、やっていないか・・・)それでも、やっぱり無理をしてまでやり続けると塵も積もれば山となり、私にはやっぱりNO!なのです。同様に、やりたいことは絶対にやりたいのですね。

 

自分を信じるといいますが、本当にその通りです。この自分の感覚(芯のYESとNO)を信じることができると、人生は途端に柔らかくなります。絶対にこれ!と決めずとも、自ずと決まってくるからです。その時が来るのを待てますし、その時が来たら見失うことなく、その選択ができるからです。

 

どうぞ、これ!と決めずに、柔らかく生きましょう。自分に対しても、相手に対しても、社会に対しても、物事に対しても、「絶対」と断定しないで生きましょう。目の前のことを心と感覚で捉えながら、できる限りの思考を働かせながら、一つずつ自分のベストを選んでいく。その積み重ねがあるだけです。そこには一切「絶対」はありません。表と裏がひっくり返ってもいいのです。今日と昨日言っていることが180度違ってもいいのです。「自分の人生は、誰でもない、自分が決める」ことが大切だからです。

 

読んでいただきありがとうございます。

Have a great day!

 

カリフォルニアの青空で久々にみた雲

 

 

 

 

 

自分の価値観と人の価値観を守りながら生きる!

みなさま、こんにちは。

今日は夫の誕生日です。ケーキを焼くのは苦手なので早速甘そうなケーキを子供たちと一緒に買ってきました。夕方は子供たちに空手クラスに行ってもらってその間にせっせとお料理を作ります。

 

昨日の公園での出来事です。我が家の兄弟が遊んでいる近くにメキシコ系でしょうか、スペイン語を話す姉妹がやってきて遊び始めました。スペイン語で話しながら楽しく遊んでいる様子に我が家の長男が何を思ったか、いや、何も思っていないのでしょうが、彼らの話すスペイン語を真似て、『アプラアパラアプラ』だったか大きな声で叫んでしまったのです。明らかに彼らに向けて、そうではなくても彼らを真似て、発したことなので、私はつい反応してしまいました。ヒヤッと、イラッと、いえ、カーッ!となりました。

 

発達障害のある長男にとって、キャッチした刺激にはどうしても反応せずにはいられません。本来ならば、咄嗟に何かが湧き上がってきても、理性や経験からストップ機能が働き、善と悪や適切、不適切の判断ができるのですが、長男はその機能が極めて弱いのです。

決して本人にも悪気があるわけではないのです。ただ、彼にとってはそれらが面白くてちょうど良い刺激になったのです。でも、彼だって後々考えれば分かるのです。自分が言われたり揶揄われたりすることは人一番嫌なのです。それでも、その瞬間は考えるよりも先に行動したり発言したりしてしまうのですね。

 

特にアメリカに来てからは、人種や言葉や性による差別や偏見をどう捉えていくかということを子供たちにも教えなくてはならないと強く感じます。

 

日本でも比較的外国人の多い地域に住んでいたので、幼稚園や小学校にもクラスに数人は必ず外国人や多国籍の子供がいました。また、小学校での我が家の兄弟の一番の親友はマダガスカル人の兄弟。肌の色も言葉も何も気にすることなく、本当に自然に遊ぶ様子を見ていてとても微笑ましかったです。

 

そして、何を隠そう。我が家の子供たちも中華系シンガポール人と日本人のハーフです。ただ、日本で生まれ育ち、シンガポールには年に一度遊びに帰るくらいなので、彼らのアイデンティティは断固として日本人です。パパはシンガポール人、でも、僕は日本人といった感じです。それでも間違いはありません。アイデンティティとは、『自分が自分をどう認識しているか』なので、彼らがそうと言えば周りが何といようと、そうなのです。

 

アメリカに来て初めて連れていったスーパーの店員さんが明らかにトランスジェンダーの方で、私の子供たちは、彼女を真正面から見上げながら日本語で『この人、男でしょう?』と。コラッ!!と叫びたいのを我慢して、少し離れてから『She is a woman if she thinks she is!』と。周りが何と思おうと、『私は私でよい』というのは変わりません。

 

その後知り合った7歳の男の子と遊ぶ機会がありました。ガレージから覗いている男性を見て、『パパなの?』と次男が聞きました。すると『He is my grandpa. I don't have a dad! I have two moms!!! 』

な、なんですと?!!お母さんが二人??一瞬私の頭にもはてなマークが。次男は完全にスルーしていましたが、彼のママたちはLGBTカップルとのことでした。

 

たくさんの価値観が普通にある社会って本当に素敵だなと思いました。

 

同じく昨日のこと。30歳くらいでしょうか、大人の男性が公園へやってきて、とっても楽しそうにYaaay!!! Yapiii!! と叫びなから30分はブランコを揚々と漕いでいたでしょうか。こういう時、大人は察して少し距離を置いたりするのではないでしょうか。それはアメリカでも一緒なのかな。近くにいた人たちは子供を連れて少しずつ少しずつ距離を置く様子が伺えました。

 

暫くその様子を見ていた次男が私に尋ねました。『アメリカでは、大人も自分が子供だと思ったら子供になれるの?』はっとさせられ、どこか嬉しかったです。『そうね、自分がそう思うのならそれでいいわよね。』

 

人種や性のアイデンティティであれ、病気や障がいであれ、本当は『私が私で良い』というスタンスで間違いないのですよね。

 

私の長男は、真っ白な世界に住んでいるように感じます。常識や世間一般のルールのない真っ白な世界には、人や社会が決めた善悪の価値判断がありません。人と人との境界も非常に曖昧です。

 

それが、彼自身なのです。『彼は彼で良い』というのをどこまでも尊重すると、彼の公園での振る舞いも『彼らしさ』の範疇にあるのです。無意識で、無邪気な、彼の表現のひとつなのです。

 

それを理解しつつ、私は私のスタンスがあり、子供たちには伝えておきたい。私は、人と人との境界はしっかり守りたい。人のコアの部分を決して傷つけることだけはしたくはない。その人のアイデンティティや尊厳を傷つけること、その人が愛する人や家族を傷つけること、それは、オールオッケーの世界の中での守るべきルールなのですね。

 

人の数同等の価値観があります。私とあなたの価値観を比べることは何の意味もありません。基準が『私』である限り、正解はどこにもないからです。

 

だからこそ、自分の価値観を守りながら生きるためには、人の価値観を守りたい。そう思います。

 

子供たちにはこのような体験をたくさんして欲しいと思っています。

 

読んでいただきありがとうございます。

Have a great day!

 

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アメリカではスピリチュアルは必要ない?

みなさま、こんにちは。

今朝は朝早くから路上運転の練習をしてきました。日本でも運転歴は10年ほどはあるのですが、自宅周辺の慣れた広い道しか運転したことがなく、高速道路も走った事がありません。アメリカでの運転は渡米前から唯一の不安要素だったのですが、こればかりは避けては通れません。フリーウェイはおろか、普通の道ですら4車線、5車線はあり、右折レーンや左折レーンもしっかり決まっていて車線変更も必須。スピードも速いし、危険運転もたくさん!まずは、子供の小学校の送迎が来週月曜日から始まるので何としてでもそのミッションはクリアしなくては!

 

さて、今日はスピリチュアルの話を少し。2年くらい前でしょうか。急にスピリチュアルや精神世界への関心が出てきて、数多くのカウンセリングやヒーリングセッションを受けました。「学び」を深めたいとスピリチュアルや悟りの本を読んだり、講座を受けたりもしました。長男が生まれて子育ての大変さに我を失った10年。夫と長男との関係が劣悪になり、そのことから私と夫も喧嘩が絶えず、ギスギスした家庭でした。この泥沼から何とか抜け出したくて、目の前の問題を何とか解決したくて、それと同時に「自分とは何か?幸せとは何か?人生とは何か?」という疑問が次から次へと湧きおこり、そんな私の目の前に都合よく、スピリチュアルがありました。

 

スピリチュアルを通して、多くの異なる世界観に触れることができて楽しかったです。あらゆる意味において、私に「気づき」を与えてくれたのも事実です。素晴らしい出会いもありました。それでも、一年、二年もすると、本来の私の飽き性が水を差してしまったのか?当初のように、はっとさせられる気づきだったり、感動だったり、腑に落ちる感覚というものも得られなくなってしまいました。

 

「私は私で良い」という感覚の中で生きるようになると同時に、スピリチュアルというものを敢えてスピリチュアルと称さずともそれは当たり前のようにあるものだと感じるようになりました。そこにあったのは、華やかさも煌びやかさもない、地味な「私と私が見る世界」。私の人生は極めてシンプルで素朴で、とてつもなく自由でした。それが探し求めた「ありのまま」でした。

 

スピリチュアルに凝った時は、いつかセッションができるようなスピリチュアルカウンセラーやヒーラーになりたいなんて思っていました。「目に見えない力」への憧れがあったのです。知らないことを知りたい、触れられないものに触れたいという欲望がまるで私を支配するかのように、私はその思いに駆られてしまったのです。

 

しかし、その思いも次第に弱まり、その道へのシャッターは自然とガラガラと閉じられました。それもそうです。「私は私で良い」世界という立ち位置にいると、自ずと「あなたはあなたで良い」ということですから、私が誰かに対して「何かをしたい。」「何かをしてあげたい。」「助けてあげたい。」「アドバイスをしてあげたい。」という気持ちも失せてしまったのかなと思います。友人や知人から個人的なお話も聞かせてもらいますし、意見を求められることもあります。でも、私に聞いても何の役にも立ちません!!!!(笑)解決はおろか何のアドバイスも出来ていないと思います(笑)

 

「あなたはあなた」で「あなた」の創造の場で「あなた」の経験を積むことを楽しんでいると思っているので、何があっても「それでいいじゃない!」というスタンスに変わりがないのです。今、苦しい思いや悲しい思いをしていても、それが一生続くわけではありません。幸せや情熱も然りです。また、悲しみや不安や怒りなど負のイメージのある感情や体験も決して悪いわけではありません。

 

私だって苦しい思いや悲しい思いをしてきましたし、助けを求めて手当たり次第相談したこともあります。失敗もしましたし、お金も出ていきました。それでも、人間というものはそのような経験を実際にしてみないとそれらが何なのかさえも分からないのですよ。見て聞いて知ることと、実際に経験して知ることは断然その意味も質も違うのです。そして、そのような泥沼にいる時は、どこまでもジタバタして地団駄踏んでもがいてみればいいのです。ただ、そんな時期なだけなのです。来るべきタイミングで、それがどうでもよくなって、スルスルと別のことに気を取られることでしょう。

 

アメリカに来て、ここはスピリチュアルのようなものが必要ないのだと身に沁みました。なんせ皆楽しそうなのです!勿論、生きていると課題や悩みは人それぞれあるでしょう。それでも、「私は私で良い」という感覚が一人一人から溢れています。会った瞬間からそれがわかるのです。そしてその人からも「あなたはあなたで良い」という受け入れが伝わってくるように感じます。人と比べることのない世界。人の個性を尊重し合う世界。それが当たり前のようにあるからこそ、敢えてスピリチュアルという視点を取り入れることが必要ないのかもしれません。

 

私はお話をするのも、人のお話を聞くのも大好きです。それでも感情移入は一切しないです。私自身が冷たくて淡白なのかなと感じるところもあるのですが、「いいじゃない、それで!」と思うのです。一見不幸に思える出来事も、見えていることだけが全てではないので、「いい体験しているね!」と思う気持ちに変わりがないのです。

 

スピリチュアルカウンセラーやヒーラーとは全く程遠くなってしまった私ですが、きっとこれが本当の私でしょうね。でも、お話を聞くのはいつでも大歓迎です!みなさまも今できる体験を何なりと楽しんでくださいませ。

 

読んで頂きありがとうございます。

Have a great day!

 

 

 

青空にしっかり根付く木々

生きていることこそがすべて。素晴らしいのです。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小学校のエンロールメント完了!人生はクリエイションの場!

みなさま、こんにちは!

今朝、いつも通りジョギングに行ったのですが、5分も経たずに足を引っ掛けて転んでしまいました。膝、掌、手の甲、頬っぺた、肩、至る所に擦り傷ができてしまい、まぁその痛いこと。かなりテンションダウン。思っているように足が上がっていないのでしょうね。やっぱり年齢には勝てません。そして、足を躓く時は決まって右足。何かのサインでしょうか。

 

さて、今日は子供たちの小学校の入学手続きに行ってきました。公立なので住所によって指定校が割り当てられていますが、様々な事情によりエリア内の他の小学校に通うこともできます。

 

アポイントを取り、エンロールメントフォームやアンケート、メディカルチェック等々、必要な書類を一式準備して、コーディネーターにお渡ししてきました。たまに、指定校であっても学年によっては定員オーバーで受け入れが難しい場合があると聞いていたのでドキドキしていましたが、書類を一通りチェックして5分も経たずに完了。Welcome to school! 

 

上の子は五年生、下の子は二年生になりました。英語のできない我が家の子供たち。英語のサポートとして、ESLのクラスを他のクラスに代わって受けることになりそうです。世界各国の子供たちが入り混ざったとてもインターナショナルな環境のようで、英語なんてすぐ覚えるから全く心配無用よ!と励まされました。

 

カリフォルニアでは、昨年よりブレックファーストもランチも無償で与えられるみたいです。メニューを見てみると、朝はシリアルにホットドッグにシナモンロールにドーナツ。それに甘そうなチョコレートミルクなどの飲み物も付きます。お昼はメインがピザにタコスにサンドイッチにミートボールスパゲッティ。アメリカらしいメニューが並びます。親としては栄養やカロリーが気になるところですが、無料というのは有難い。そして、子供たちは俄然テンションアップ。飽きるまでは思う存分食べさせることにしましょうか。

 

そして、こちらの小学校。公立ではあるのですが、裕福で教育に関心の高いファミリー層が多いエリアだけに、PTAや基金がかなり力を持っているみたいです。ピクニックやパーティーなどの家族向けのイベントも頻繁に開催されるようで、飲み物や食事なども無料で振舞われます。ということは勿論、ファンドが必要とのことで、定期的に寄付の機会があるみたいです。

 

寄付って一体どのくらい??我が家に支払えるのか?と怖気付いていたら、友人曰く、お金が出せないなら身体と時間を差し出せればオッケーとのこと。時間だけはたくさんある私。これから学校に出向いてできる限りのボランティア活動をやろうと思っております。

 

来週月曜日からいよいよ学校スタートです。今のところ子供たちは新しい環境を楽しみにしてくれていますが、どうなることでしょうね。先生やお友達、どんな出逢いがあるのでしょうね。

 

未知のクラスルームやグラウンドを眺めながら羨ましさが込み上げてきました。出来ることならばその体験を私自身がしたかった。私は、子供の頃、他の環境への憧れもあって、アメリカ人になり切って妄想を楽しんでいたのです。父と母がいつも喧嘩している目の前の世界から逃れたかったのもあります。アメリカのドラマを見て、アメリカの音楽を聴いて、アメリカの本を読んで、気分は本当にアメリカン!独り言も英語、空想(妄想)も英語。アメリカ人の架空の友達、ボーイフレンド、そしてファミリーもアメリカンでした。小さな女の子の健気な逃避行。

 

それでもね、驚くことに英語は難なく習得できたのです。高校生の時にイギリスに初めて短期留学で行ったのですが、言っていることも大体理解でき、普通に会話が出来るようになっていました。妄想もなかなか悪くないですよね。

 

そして今こうして現実を創っています。年齢こそあの頃よりだいぶ上ですが、アメリカに住んで、子供たちはアメリカの小学校に通うことになりました。これはもう私自身が楽しむしかありません!宿題や課題も一緒にやっちゃいましょう!イベントも楽しみです。

 

イマジネーションは現実を創るとよく言われますが、本当にその通りで、私は人生の中でたくさん体現しています。イマジネーションも出来ないことは意識にも上らないということですから現実に起きるはずもないのです。一度でも意識に上がると、自ずとそちらに光が当たるので、(良いことも悪いこともですが)引き寄せが強くなるのでしょう。

 

私は、この人生自体がクリエイションの場だと思っているので、空想も妄想も現実も、いろんな意味で境がなくてもいいのではと思っています。空想していたら現実になり、現実と思っていたら妄想でしかなかったり。いろんな次元を行ったり来たり楽しみながら、少しずつ人生を創造しているのだと。なので、どんなに困難に思えても自ら否定することなく、あらゆる可能性は持っておいた方がいいのです。クリエイションから始まる、その旅路自体を楽しむことが人生の醍醐味なのですから。

 

読んで頂きありがとうございます。

Have a great day!

 

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