サンディエゴより♡私が私らしく、あなたがあなたらしく

自然体で気まま♡私が私らしくいることが一番大切です。

結局は自分が一番大切。呆れつつもそれが私。

みなさま、こんにちは。

今日は水曜日。小学校はお昼まで。あっという間にお迎えの時間です。

 

少し涼しくなってきたとはいえ、まだまだ夏のカリフォルニア。水曜はプールDAYです。簡単に腹ごしらえをして、15時頃から夕方過ぎまで親も子ものんびりプールで過ごすというのが定番。働いていない私はともかく、お仕事中であろうパパやママたちもプールサイドでのんびり。こちらは日本と比べて、仕事も自分で管理しやすいのでしょうね。

 

今朝散歩をしながらふと考えていたのですが、私はつくづく、自分本位で生きている(生きたい)のだと思います。空を感じ、木々たちを感じながら、私がこの世の中で大切にしたいものって何だろう?って考えていました。

 

私にとって、モノを所有することは煩わしく、最低限の持ち物で生きたいというのは変わりません。(といっても、生活を楽しむための不必要な物をついつい買ってしまうけれど)お金も然りで、勿論お金に余裕があるのに越したことはありませんが、お金に振り回される生活は極力避けたい。

 

土地や家もそう。日本には夫名義で土地や家を所有していますが、こちらにも私自身は何の思い入れもありません。カリフォルニアに来てもそうです。レンタルで高い家賃を払い続けることは勿体ないとは思うのですが、家を所有してこの土地に根を下ろすという決断は私にとっては少し窮屈で、早々できるものではありません。

 

そう考えていくと、大切なモノってさほど無かったりして。家族や子供たち。勿論です。それでも、家族という存在ですら、「私の世界」の住人ではないのです。大切な家族や子供たちは今は人生を共有していますが、彼らは彼ら各々の世界があり、その住人なのです。私が彼らの人生を生きることができないのと同様に、彼らも私の人生を生きることができないのですから。

 

ということは、一番大切なのは、私自身。そして私自身の在り方や身体の健康。私にとっては、それが一番大切なのだとそう感じたのです。

 

結局のところ、私は薄情な人間なのかもしれません。母親なのに、自分の命より大事な子供がいるでしょう、と。もちろん、その時はそうでしょう。命というものを差し出す必要がある時がくれば。

 

それでも、やっぱり自分自身が一番大切だと、自分自身を一番愛したいと、そう思って生きています。

 

そんな私は、どうしようもなく自分本位で自己中心的なのかもしれません。それが私なのですから、つくづく呆れつつも認めるしかありません。

 

読んで頂きありがとうございます。

Have a great day!

私も野生動物と同じ。自分が一番大切に変わりありません。

 

 

一人っきりの幸せ

 

みなさま、こんにちは。

サンディエゴの熱波はどこへやら先週末は一気に涼しく、ものの見事に長男が風邪を引きました。

 

昨日は新しい友人と初めてのランチのお約束。朝から何だか嫌な予感はしていたのです。お約束の20分ほど前、まさに今から出ようと車の鍵に手が触れた瞬間に電話が鳴りました。これこれ。朝からこの気配を感じていたのですね。小学校からのお呼び出し。長男が熱があるので迎えに来るようにとのことでした。ここぞという時は絶対やってくれるよねと半ば呆れながら、泣く泣くランチをキャンセルし、お迎えに行ってきました。

 

熱も微熱程度で至って元気そうでしたが、しっかりコロナの簡易テストも無料で頂きました。さすがアメリカですね!

 

風邪なのに元気いっぱいの長男に(腹の底では舌打ちしつつ笑)お昼ご飯を作り、別部屋で寝ていてもらい、そそくさと次男のお迎えへ。

 

今度は、長男が早退したのを知って、ズルい!と次男が泣き出す始末。何がズルいのよーー!でも、我が家の兄弟はこういうところがよくあるのです。3歳差はあっても、お兄ちゃんらしくない兄と対等だと思っている次男は、やたら兄に対して同等であることを求めるのですね。ご飯の量も、テレビやゲームの時間も。(勉強の量も同じにしてくれー)そして、同じことを長男も次男に対して求めるわけです。長男にとって、お兄ちゃんだから、年齢が上だからと言うことは一切関係ありません。

 

そんなこんなで私は少しお疲れ気味です。家族のことは好きなのですが、元々自由をこよなく愛し、一人でいることを全く厭わない私にとっては、常に家族と一緒にいることに限界が生じるのです。I need a break! こういう時は、プチっと頭がキレてしまう前に、自らどこかへ逃避します。ふらっとお散歩へ。ふらっと公園へ。ふらっと海へ。どこへだっていいのです。家族の喧騒から離れることができれば。

 

我が家は、夫に、長男に、次男に、私。男ばかりなので特にでしょうか。有難いのですが、ママ!ママ!ママ!ねえ!ねえ!ねえ!と三人が私の注目や、私のお手伝いや、私の時間を競い合うかのように、常にいるのです。求められているうちが華だと分かってはいるのですが、やはり私の個性の一つなのでしょうね。

 

人は好きなのですが、家族であっても距離が必要なことに変わりがないのです。一人であることを孤独だなと思うこともあります。でも、私の深いところで、人はみな孤独であるという思いがあり、それが最も自然なのだという思いがあります。そして、そうあることが、私らしくもあるのです。

 

今日の長男。コロナのテストも陰性で、熱も下がったので、無事に学校へ行きました。ありがとう〜!

 

子供たちの騒がしい声や夫とのやり取り。いざ無くなってしまうと恋しく思うでしょう。それでもやはり、一人っきりの空間と静かさ、このさざ波も立たないような穏やかな海で漂うことの幸せには代え難いのです。

 

読んで頂きありがとうございます。

Have a great day!

 

 

 

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雨降りの日。父のことを少し。

皆さま、こんにちは。

サンディエゴは朝から本格的な雨です。少し涼しくて気持ちがいいくらい。木々や花々もこの瞬間を心待ちにしていたでしょうね。

 

昨晩は、日本のお友達たちとZOOMでのお話を楽しみました。海外にいてもこうしてZOOMやLINEで簡単に会話できるって素晴らしいですよね。20年以上も前ですが、私が留学していた時は、国際電話をするのにカードを購入して、それもすぐ残金が減ってしまうので、両親に電話をするのも一か月に一度くらいだったでしょうか。今はどこにいても距離を感じないですね。

 

雨だからでしょうか。ふと父を想ったので、父のお話を少し。私の両親は健在ですが、家庭内別居のような家族バラバラの家族です。それは私が生まれた時から同じ。昔も今も変わらず、愛を見つけるのが難しいような喧嘩の絶えない家族です。それでも両親が離れることはなく、子供たちも家出することもなく・・・ こんな家族の形もあるのでしょうね。

 

私の父は今であれば発達障害と診断されるかもしれません。古い人間はそういうもの、しかし、度を越した人でした。根はとても優しくて真面目な人なのですが、繊細過ぎたのでしょう。貧しい家庭で育ち、好きだった勉強を諦め、親を支えるために中学校を退学しました。若くして就職した町の工場では夜勤シフトもあり、いつも疲れ切っていた父。それでも、定年まで勤め上げました。

 

二十歳で母と知り合い、大恋愛の末、駆け落ち結婚のような形で結婚をし、姉と私と、年のあいた弟の3人の子供を育て上げました。社会に出ても、周りの人との折り合いが悪く、それでも一家の大黒柱として家庭を支えるために、彼なりに最大限の我慢をしたのでしょう。

 

全ての鬱憤は母に向けられました。酒癖がとにかく悪く、毎晩晩酌をしては母に向けて、また子供たちに向けての暴言がまき散らされました。言葉だけではなく、手が出ることも何度もありました。父の、豹変した鬼の形相で母に飛び掛かっていく姿を忘れることがありません。母の、父を睨む真っ赤に充血したウサギのような目を忘れることがありません。

 

幸せな瞬間ももちろんありました。父と母の楽しい笑い声や二人のやり取りの記憶も微かに残っています。それでも、それはあまりに儚く、楽しい時間は幻のように一瞬で消えてしまいました。私は家族の楽しい瞬間をできる限り留めようと、いつしか周りの空気を読むピエロのようになっていました。

 

そんな父を、母は諦め、憎みました。姉も弟も父を憎み軽蔑しました。私にはできなかった。父の繊細さと弱さが、父の孤独と寂しさが痛い程に伝わったから。私が父から感じ取ったのは、震えるほどの孤独と、その裏にある、人への愛着でした。

 

ただ父が父らしく生きるために、時代は過酷で、父は不器用すぎたのです。

 

今、父は70歳の半ばに近づき、心と身体は老い、さらに孤独を纏ってしまいました。コロナが蔓延してから二年程は帰省もままならず、ようやく渡米前に久しぶりに子供たちを連れて逢いに帰ったのですが、父にとって、子供たちの喧騒はすでに苦痛に近いようでした。それよりも、自分の一人だけの世界を静かに繰り返したかった。そのように感じ、私はそっと受け入れました。

 

父を通して、生きるということの切なさを感じます。同時にそれでも生き抜こうとする人間の強さを感じます。

 

全ての人が生きては死んでいく。どんな人にも必ず最期の日はやっていきます。その生き様や死に様を誰が裁けるでしょう。誰が評価できるでしょうか。親でもなく、子でもなく、パートナーでもなく、結局は本人にしかわからない。

 

だから父の人生は、父が決めたこと。誰が何と言おうと、それはそれで良いのです。

 

読んで頂きありがとうございます。

Have a great day!

 

私が生まれ育ったのも海だった。

 

テンションダウンに左右されない

皆さま、こんにちは。

今日はサンディエゴは曇り。朝には少し雨が降りました。そして、明日から週末にかけては本格的な雨になりそうです。

 

そんな天気のせいか?私も少し気持ちがダウン。次男も朝起きて一言。「日本に帰りたいな。日本の学校に戻りたい。」だらだらモードは長くは続きませんでしたが、そんな日もありますね。

 

気持ちや感情って天気のように浮き沈みの変化はありますよね。良い日があれば悪い日があるのは当然ですもの。あれ?気持ちが何だか落ちているなと思っていたら、階段を一段踏み外しそうになるし、お料理も何だか味がイマイチ決まらないし、些細なことがいつも通りに行きません。

 

あまり感情に左右されない(すぐ忘れてしまう)私だって、上手く行かない日は必ずあります。それでも、一番大切にしているのは、考えすぎないこと。そして、理由や意味を探して深堀りしないこと。どうしてそう感じるんだろう?って根っこの部分を掘り返しても大抵何の良いこともありません。

 

それよりも、良いことも悪いことも受け流すことができる自分でいることが大切です。目の前の出来事や感情に対して、自分自身がどのような状態で対処できるかということが肝心だなと思います。

 

何も難しくはありません。私は、私の忘却力を信じ込んでいるので、テンションが落ちている原因ですら考えることもしません。今朝のエクササイズは短めに切り上げて、その代わりに新しいマニュキュアとボディミストを買いに行きました。新しい色のペディキュアに変えて、新しい香りのミストを身体に纏い、ゆっくりコーヒーでも飲めば、あらら、不思議。気分も絶好調ではないですが、さして沈みもしていません。

 

出来事というものは生きている限り次から次と訪れるのですから、黙っていても、次には良いことや楽しい気分にしてくれることが訪れます。

 

読んで頂きありがとうございます。

Have a great day!

 

出来事だって押しては引く波のように訪れます。良いことも悪いこともね。

 

 

 

恋のエネルギー

みなさま、こんにちは。

サンディエゴは猛暑が続いています。小学校へ子供たちを送っていって、いざジョギングへ。まだ朝の8時台なのに陽ざしが強くて暑い暑い!それでもこの周辺は健康志向が高いのか、至る所でウォーキングやジョギングをしている人にすれ違います。

 

今日はふと恋のエネルギーについて。私は現在40代の前半ですが、夫と出会い結婚をして10年弱が経ちました。勿論、夫とも恋をしましたし、夫と出会う前も沢山恋をしてきました。恋は盲目のような甘酸っぱい体験もね。

 

子育てをしながら家庭を築いていくうちに、夫との関係性も少しずつ変わり、愛のカタチも変わってきました。次第に、恋なんて遠い昔のことのように、その感情すらも忘れ去っていました。

 

夫のことは嫌いではないのです。と書けば、語弊がありそうですね。でも決して恋ではない感情。夫婦とは難しいもので、特に子育てをしていると、あらゆるネガティブな面を見せ合うじゃないですか。子供の時から隠し持っていたトラウマのようなものや、自分の見たくない一面を、これでもか!とばかりにあぶり出してくれます。夫婦は鏡といいますが、まさにその通り。自分の内側にあるものを見せてくれるので文句の言いようもなく、実は有難い存在ではあるのですが、それでもその過程は簡単ではありません。

 

愛といえば愛でしょう。人として、家族として、尊敬し、大切に想える人。良い時も苦しい時も、互いに全てを曝け出しながら、人生を共に旅してきたパートナーです。(修行ともいえるか・・・)

 

妻として、母としての役割をこなしながら、私にとってはそれで充分だと長らく思ってきました。しかし、一年程前からでしょうか。私の内側から突如湧き上がってきたのです。この、「恋をしたい。」という気持ちが。それは、とても素直でストレートな感情でした。ただシンプルに恋をしたかったのです。

 

そして今、私は恋をしているのです。私の内側から恋のエネルギーが愛おしく芽生えているのです。恋ってね、本当はとても自由で、とても広がりがあって、とても軽くて、いつでも、誰に対してもできるのですよ。夫に恋をし、隣に住む男性に恋をし、女友達に恋をし、木々たちに恋をし、そして花々に恋をしています。会えない時には、どうしているかな?会いたいなと、相手を想っては張り裂けそうな気持ちを募らせ、一日を健康で幸せに過ごしていることを祈ります。会った時には、胸をときめかせ、その幸せが身体中に満ちていくのをただ感じます。

 

誰かをもっと知りたいという好奇心。私のことをもっと知ってほしいと思う乙女心。相手を感じただけで広がる胸の高まり。交互にやってくる期待と安堵感。一日を恋のエネルギーで始め、恋のエネルギーで終える。

 

この恋というものは、私たちの持つクリエイティビティの源泉です。恋をしている私は、きっと子供のように瞳をキラキラと輝かせ、喜びに身体の細胞を震わせているでしょう。些細なことに幸せを感じ、その一瞬一瞬だけを見ています。この素直で屈託のない姿は、紛れもない私の姿です。

 

どうぞ皆さんも恋をして、ときめいてください。好きなこと(人)に意識を向けて、思う存分に味わい尽くしてください。

 

読んで頂きありがとうございます。

Have a great day!

 

 

 

あなたに逢いたくてお散歩してる。

 

 

 

 

個を生きると調和が成りたつ

みなさま、こんにちは。

アメリカは月曜日が祝日で3連休でした。我が家は、近くのビーチに行ったり、お友達と公園で遊んだり、お買い物をしたりしてのんびりと過ごしました。今日からまた一週間の始まり。子供たちは少し眠たげに起きてきましたが、嫌がることもなく元気に登校してくれました。

 

サンディエゴではここ暫く異常な暑さが続いています。外に出ても、車の中も、ビーチも、そして家の中も(我が家のコンドミニアムにはエアコンがついていません!)、どこにいても、太陽の陽ざしが強烈です。日焼け対策をしつつも、私も子供たちも既に真っ黒です。

 

そして、この連休でようやくウッドデッキに置けるアウトドアチェアやリクライニングチェアを買いました。こちらは夜の8時くらいまで明るいのですが、夜風に当たりながらウッドデッキで涼める幸せったらありません。ミルクティーを片手に、日本の懐かしの曲をかけて一時間は歌っているでしょうか(笑)世界は真っ白。最高のリフレッシュタイムです。半月が煌めきとても優雅な夜でした。日本でも同じようにこの月を眺めているでしょうか。

 

ここ最近、自分【個】を持ちながら、調和の循環に在るってどういうことだろうって考えて(感じて)きました。私の家の周りはとても心地の良い自然豊かな場所です。神々しい木々のお陰なのでしょうか。私にとって、とても調和を感じやすい場所なのです。しなやかに空高く伸びる木々たちは、壮大で、寡黙で、神聖で、その悠々としたスケールの大きさが素晴らしいのです。そして、花々は凛として、また、ある花々は健気で可愛らしく、そこで静かに咲いています。

 

この木々たちや花々を感じながらお散歩をしていると、私もその循環の輪の中にいることを心の奥底で感じ、私が【個】として存在することに果てしない喜びと広がりを感じることができます。自然体である私が周りと完全に調和しているのです。

 

考えれてみれば、私がこちらで出会った人たちは皆、【個】を持ちながら調和しているのです。

 

日本人はその性格や育った環境や社会から、【枠】がありきで自分と自分以外の人を捉えているのではないでしょうか。そして、私を主張するとどうしても【我】が強い人と言われてしまいます。【枠】が存在するからです。常に【境界線】があるからです。その【枠】の中にいることが苦しくて、打破しようともがいている人もいるかもしれません。その【枠】に収まろうと小さくなっている人もいるかもしれません。

 

私が体験したい世界。それは、【個】を持ちながら調和している世界。【我】ではなく、【個】なのです。なので、主張しなくてよいのです。【個】であることに揺ぎがないのです。そして、そのものを表現しながら自然体で生きている。それが調和となり、循環の輪の中にいるのです。

 

【個】であること。それは、自分であることに揺ぎがない。だからこそ相手を受け入れることができるのです。相手が気にならないのです。自分以外のものに対しての抵抗感がなく、自分は自分、相手は相手であることを、自然なものとして受け入れているのです。違いに対しての恐れも抵抗もないのです。

 

これを知ると、【枠】が必要なくなります。【枠】を必要としないから悠々としたスケール感が出てくるのです。どっしりと安定感のある幹に、しなやかに伸びる枝葉。本当は私たちも木々たちや花々と同じなのです。我を主張せずとも、【個】として十分にその輝きを全うしているのです。

 

ここにいる私は自然そのものです。私が出会う人も自然そのものです。その循環がとても柔らかでしなやかなエネルギーを生み出しているように感じます。

 

私が体験したかったことの一つをすでに体験しつつあります。言葉で表現することは難しいのですが、確実に私の中に体感としてあります。

 

読んで頂きありがとうございます。

Have a great day!

 

どっしりと安定感のある木々たち

 

語らずとも可愛らしさが伝わってきます。

 

 

 

 

 

子供を育てるという不安

みなさま、こんにちは。

週も後半ですね!一通りの家事やエクササイズを終わらせ、のんびりコーヒーを飲む時間は何て幸せなんでしょう。

 

来週の月曜日はLabor Day!LONG WEEKENDです。イエローストーン国立公園に行く友人もいれば、5~6時間かけて運転してキャンプに行く友人も。我が家は悲しいことにお出かけの予定はありません。こちらに引っ越ししてきて一か月足らず。家に必要なものの買い物だったり、車探しだったり、やるべきことが盛りだくさんです。実はまだサンディエゴのダウンタウンサンディエゴ動物園などの観光地や行楽地も一度も行けておりません。日本からのお引越し。落ち着くまではまだまだ道は遠いですね。

 

長男に引き続き次男も、今日こそはスクールランチを食べるんだ!とお弁当を持たずに登校していきました。万が一何も食べられなかった時を心配して、バナナ1本をバッグに潜ませて。無事にランチをゲットできたかしら。どちらにしても大きな一歩ですね。

 

こちらに来て、日本の子育ては過保護だなと思います。よく言えば、きちんと目が届いているのですが、どうしても管理(監視)してしまっている親も多いのではないでしょうか。躾と称して、【こうするべき】に余りにも口を挟みすぎかもしれません。何を隠そう私もその典型でした。それで親子共々苦しくなったのですが。

 

こちらでは、親と子供の距離が近いようで、ある一定の距離間を尊重しているように感じます。自分は独立した一人の人間であるという意識を小さな子供の頃から持っているように思います。自分で決めて、行動をして、その結果の責任を自分で取るということを大切に教育されているようです。

 

ある男の子が公園で遊んでいたのですが、自分のおもちゃを他の子供たちに取られまいと、NO!という仕草でおもちゃに触れさせなかったのですね。日本だと、そのような行動に対して、親は心配になるのではないでしょうか。多くの親が子供を注意してはみんなに貸してあげるよう(シェアするよう)促すのではないでしょうか。しかし、それを隣で見ていたお父さん。「それでOKだよ。君が人のものにも手を出さない限りね。」と一言。

 

なるほど。それでいいんだ。と思いました。今まで私は何をやってきたのだろう、と思いました。

 

そして、私はまだ「不安」をいっぱい持っているんだなと気づかされました。子供を育てるという不安。いや、違う。社会に適応できる大人に育てられるだろうか、という不安でしょうか。もっと言えば、優しさと他者への思い遣りのある人間、道徳心のある人間に育ってくれるだろうかという不安でしょうか。長男が生まれてからずっとこの不安が根底にあるのです。

 

マイペースの長男の尖った自己中心的な個性をどうしても受け入れられず、丸く丸く仕上げなければと、無理な努力をしてきました。彼の尖がった部分は彼の強烈な個性なのにね。私の中で、まだ、周りと調和するためには、自分の個性に妥協しなければいけないという思いがあるのでしょうね。

 

本当は分かっているのです。そうじゃないよって。堂々と自分の個性丸出しで、自分の人生を生きればいいよって。でも心のどこかで、猜疑心が消えないのですね。本当に?私は妥協したよ。誰がそれを見せてくれた?って。

 

彼の個性を受け入れるということに、余計な【不安や心配】がくっ付いたままです。そして、今の私にはまだこの【不安や心配】を完全に取り除くことができません。(これを取り除くために、長男がこれでもか!というくらい不安に思うことを仕掛けてきます。私がいよいよ諦めるために(笑))

 

彼はこのままで大丈夫!といつか心から安心できる時が来るのでしょうか。アメリカに来た事はこのことと大きな関係があるのだろうなと直感的に知っています。

 

その時に私も一人の人間として自立して、自分の人生だけを見つめることができるでしょう。また、一人の女性としても人生を謳歌できるでしょう。

 

読んで頂きありがとうございます。

Have a great day!

 

 

彼自身は人生を謳歌しているけれど・・・